逆方向へ
クリスマス。日本では「師走(しわす)」と呼ばれる時期です。
師が走る、とはよく言ったものです。(正確には諸説あるそうですが)・・・伝道師も走っています。
先日、親知らずが急に痛み出し、歯医者に行きました。
「こんな忙しい時期なのに・・・・」と思いながら、痛みを我慢しながら働くよりも、いっそのこと治療してもらおうと思い、重い腰を上げて歯医者に行きました。
「あぁ、これは炎症を起こしてますね。疲労がたまっているでしょう。口の中の良い菌と悪い菌のバランスが崩れて、こういうのって起こるんですよね。」
歯医者さんが言うには、口の中の唾液の状態でも、人の疲労度が分かるらしい。
そして、人生の節目、就職や結婚などの時に、親知らずというものは痛むらしいのです。
ずばり言い当てられた!
この人は預言者なのかもしれない。
などと思いながら、自分が忙しくしていること。せっかくのクリスマスなのに、心が乱れていることを思わされたのでした。
クリスマスの出来事を考えていると、その不思議さに心打たれます。
処女マリアが身ごもって男の子を生んだ。
このことは、人間の常識ではあり得ないようなこと。だからこそ、ここにフォーカスが当てられて、「そんなこと、あるものなのかねぇ」と思って終わりということがよくあるかもしれない。
ですが、更に物語を読むと、その身ごもったマリアを夫ヨセフは受け入れて、一緒に生きることを選んだのでした。
結婚していない相手が、妊娠している。
夫の立場から見るならば、当然、この人が不倫をしたと思わないわけにはいかないはずでした。さらに、そんな人と一緒になるならば、周りの人からの自分への評価もがた落ち。
「ヨセフって人は、どうやら不倫をした人と結婚するらしいよ」
書いてある通りに受け入れるならば、マリアとしては身に覚えのないこと。
ヨセフとしては、マリアを信用する以外になく、信用した先に待っているのは社会からの評価の低下。
そんな出来事の中に生まれたのが、イエスというお方だった。
そんな不可思議なことしなければいいのに。と思う一方で、
自分が本当に求めている人というのは、どんな自分であれ共に生きてくれるような人を求めているように思います。
誰からも評価されず、むしろ、低く見られるところに身を置いたマリア、ヨセフ、そしてイエス・キリスト。
この方と共に生きるということは、この自分も周りの評価を得ようとするような生き方ではなく、自分で自分を誇りに思うような生き方ではなく、
必要としている誰かの重荷を共に担っていく生き方を選ぶことなのだと思わされています。
そして、そのような生き方は常識的な生き方とはまったく逆方向を進む生き方で、
「何の得がそれにあるの?」と思われる生き方かもしれない。コストパフォーマンスはほとんど皆無の生き方。
ですが、そのような生き方に、実は本当に求めているものがあるのかもしれません。
クリスマスのひと時が、そのような生き方をするひと時であることを願っています。